今回から数回ほど、心と体を落ち着けて整えるための簡単な方法・無努力静功について書いてみようと思います。


 静功というのは気功の用語で、動かないで静かに座ったり立ったりしながら、体の内側を見つめ、気の流れを感じて体の活力を高める功法のことです。
 そして、覚醒しながら心身の動きが止まった、とらわれのない状態になることを目指します。
 気功というと、太極拳のようなゆるやかな動きをするものをイメージする方も多いと思います。
 動きのある方は動功と呼ばれていて、気功の功法は大きく分けるとこの静功と動功の2つになりますが、静功の方がより重要なものと考えられているそうです。


 動かないで心身を静めるというのは、座禅や多くの瞑想法も目的としていることだと思います。
 座禅は修養的なところ、瞑想は心の動きの面がまず最初に来る印象が私にはあるのですが、今回紹介する無努力静功は、どちらかというと体を整えることから始めるようにしている方法です。
 私としては座禅、瞑想の持つそういったイメージから区別するために静功という言葉を使いました。
 そして、無努力と謳っていますから、難しく面倒なことはないですし、簡単でありながら奥深いところのある方法です。
 行っているうちに体が整い、それとともに心も落ち着いてくるのを感じられると思います。
 さらに、これはいつでもできるので、もしその楽しさを知ってもらえれば、人生の退屈な時間というものがなくなるかもしれません。



 本来の気功の静功では立ってやったり、寝転んで行うやり方もあるようですが、ここで紹介する方法は基本的に畳、床に座布団を敷き、座って行って下さい。
 座禅、瞑想、静功ではいろいろな決まり事、足の組み方や姿勢、呼吸法、心を集中するなどがあったりしますが、無努力静功ではそれらの決まり事は行わず、ただ音楽、テレビ、携帯電話等がない中でただ座るようにします。
 姿勢は好きな体勢でいいです。
 また、退屈をまぎらわせるために自分の意志で行う行為、例えば歌を歌ったり、明日の予定を考えるなどをしないようにします。

 決まり事的なものをいくつか挙げるとすれば、座り方は一番楽なあぐらで全くかまいませんが、もし出来たらヨガで達人座と呼ばれる、両足の指を反対の脚の太ももとふくらはぎの間に入れる座り方で行ってみてください。
 あぐらの出来ない人は正座か椅子に足を組まないで座り行ってください。
 あと部屋の温度は快適にして、空気も換気しておく。ゆったりした服装で行うなどです。
 時間は最初は15分くらいがいいと思いますが、頑張ったり我慢することなく行える時間でやります。


 何もしないで座っていると、次から次へと考え事がよぎったり、手いたずらをしたくなったり、体をモゾモゾと動かしたくなったりすることがあるかもしれません。
 その時は頭や体が起こすことを止めようとせずに、そのままで座り続けます。
 考えや感情、体の動きが出たらなるべくそれに対してあれこれ反応せず、現れたものが起きるままにさせます。
 これらは座禅や瞑想で避けるべきとされるものでしょうが、私はそれに意味や価値があると思っているので、受け入れてそのままにさせます。

 雑念と思われる止まることない考えは、それをただ浮かぶままにさせれば頭の整理になりますし、手いたずらや体が落ち着きなく動くのは、自発動という体を整える動きにつながります。(自発動についてはこちら
 自発動は体が自らを整えるために起こす本能的な動きで、人の意志とは関係ない自動的な動きに身を任せると、体の歪みや悪いところが自然に調整されていきます。
 私が決まり事なく無努力で座るのを勧めるのは、この自発動を起こさせるためというところがあります。

 手いたずらや体をソワソワさせるのを止めることなく、その動きに意識を合わせて動いていると、自分の意志とは関係ない体の動きを感じられるようになってくると思います。
 勝手に体のあちこちが動くので、初めは怖くなりますが、そのままにしておけば動きは自然に抑まります。
 また、自発動が起こらなくても、手いたずら(脳を整理する事と関係している)や、首をクネクネ動かしたくなるのも自発動と同じことなので、体が欲するようにさせてください。
 これらの行儀の悪い、また奇異に思える動きは、普段は人目を気にしたり、意識を自由にさせる時間を持つことがないのであまり出てきませんが、すべて体を整えてくれるものです。

 
 自発動が体を整えるのを見ていると、体の歪みは人為的にに矯正するのは不可能なほど、微妙で複雑なものだということが分かります。
 そうやって体を整えるのには時間がかかるので、いくら座って自発動を行っても足りないと感じてしまうほどです。
 また、これをやると背骨がポキポキ鳴ったりして気持ち良くなるということもあります。
 長い時間やっても構いせんが、頑張ったり我慢する感覚なく楽に行って下さい。
 座っていて疲れたり、面倒になったらそこで止めにします。
 そして、この静功の効果は自発動が起こることだけではないですから、体が動かないという人はそのまま座ってみてください。
 ただ静かに座る中にほかの様々な発見もあると思います。



 決まり事のないこの無努力静功は、瞑想状態に入ろうとしたり、姿勢や呼吸を気にしたり、と気を配ることがある普通の方法よりやりにくいところもあるかもしれません。
 人は何もしないでいることにあまり慣れていないでしょうから、制約なしのこの状態は楽なように見えて逆に困ってしまう、と感じる人もいるでしょう。
 しかし、精神修養やビジョンを見るといった目的、そのための姿勢、呼吸などを行わずにただ座り、次々と現れる考えや落ち着かない動きのままでいることは、無駄なことのように見えますが大切な意味があります。
(自発動や入静は目的とも言えなくはないですが、これらは自分から起こそうと追及するものではなく、自然に起きるものだと考えてます)


 私たちは自分を中心とした意識的な考えにいつもとらわれて、自らの存在を狭めて生きづらくしてるところがあると思います。
 この静功を行って、日常生活から離れた何者でもない時間を持つと、私たちの本能の知恵は、一見無意味に見える考えや動きを起こして、人の体の歪み、心のとらわれを私たちの気付かないところで整えてくれている、ということが分かると思います。
 これらは実際に体験してみないとわからないと思いますので、一度気を紛らわせるものも決まり事も何もない中で座ってみてください。
 意識的な考えや努力のない中、ただ座り続けるだけで、いろんなことが起き、様々な発見、学びがあるはずです。


 フランスの思想家パスカルは、「人間の不幸というものは、部屋の中に静かに休んでいられないことから起きる」と述べました。
 その考えには賛成ですが、私としてはそのあとに、「部屋で静かに座ることは、私たちの知らない興味深い世界への入り口になる」という言葉を付け加えたいです。



 座禅、瞑想には数多くのやり方がありますが、どのやり方を行うといいか迷ってしまうところがあります。
 それらは、それぞれの目的や効果があると思いますが、やり方を一つに決めてしまうと、心身がそれで固定化して、柔軟性を失ってしまう、ということもあると思います。
 さらに、方法によって異なることを勧めている場合もあるし、間違ったことを教えられているかもしれません。
 例えば、ある方法の座り方では右足が上にくるが、別のやり方だと左足を上にした方がいい、と教えたりします。
 この場合どちらが正しいのか、またはどちらでもいいのかはハッキリしません。
 でも、もしこれに関する正しい答えがあったとしたら、間違った方を教えられていた人はだいぶ損をしてしまうことになります。(私としてはその時々で楽な組み方をすればいい、と思ってます)
 だから、こうしなさいと教えられた方法でも間違っていたり、自分に合ってないことがあるかもしれないから、実際に効果があるか自ら確かめてみる態度が必要でしょう。


 前回の記事で無努力静功という私なりのやり方の説明をしました。
 それは座禅、瞑想を行うときに要求される姿勢、呼吸などの決まり事なしにただ座り、自らに起きることをそのままにさせることによって心身を整える方法です。
 制約なしに座っていると、体を整えるための動きである自発動などいろいろなことが起きるのですが、何が起きるかは毎日異なります。
 それは体の歪みが複雑だからということや、人は毎日変化しているので、静功を通して心身が要求することも変わるからだと思います。
 こうやって日々変化しているものに対して、姿勢とか呼吸、何らかの方法といった決まったものを押し付けるのは、心身を一定の型に固めてしまうように思えます。


 無努力静功中の体の落ち着きのない動きは、自発動につながりますが、この時よく動かしたくなるのは手や首です。
 手いたずらや首を動かすのは、それだけそこに歪みが多くあるということだと思います。
 ほかにも口や眼を動かしたくなる時もあります。
 これらの動きは、体の好きなように動くままにさせていると、だんだんその動きが少なくなってきます。
 動きが減るのは、その箇所が整ってきているからだと考えています。
 以前、私は手や口をせわしなく動かしていましたが、今は昔のように動くことはありません。そして、よく動かしていた当時は顎の歪みがひどくて、軽い顎関節症のような症状があったことがありましたが、口の自発動をしているうちによくなりました。



 私は、無努力静功を行うのが、心身を整えるための簡単で良い方法だと思うので、決まり事なく座るのを是非お勧めしたいのですが、ずっとこれをやっているとたまに飽きてくることもあります。
 そこで座っていたい気持ちはあるけど、何もしないでいるのも嫌だなと思った時に、気分転換的に行う方法を少し紹介したいと思います。
 今まで決まり事がないほうがいいと言ってきたのに、とツッコミを入れられそうですが、これらは努めてやるということでなく、気が向いたら遊び感覚で試してみてくださいというものなので参考にしてみてください。



◇座っているとき、削ってない新しい鉛筆やそれくらいの長さの棒を用意して、その両端を手のひらの真ん中にあてて、はさんでみます。
 こうすると、両手のポジションがいいのか、気が出入りするとされる手のひらの労宮穴を鉛筆でつなぐので気の循環が起きているのか分かりませんが、頭によぎる考えが少なくなったり、自発動が起きやすくなったりします。


◇禅や瞑想でよく行われる呼吸を観察するという方法はたまにやりたくなります。
 呼吸をコントロールするのではなく、自らの自然な呼吸をそのままに観察します。
 息が左右どちらの鼻の穴をよく通っているかとか、どれくらいの強さで呼吸しているかなど、ふだん意識しない自分の息の仕方を見ていると呼吸が穏やかになり、心が落ち着いてきます。
 人は考え事を始めると呼吸が乱れてくるといわれていますが、呼吸をじっと観察していると滑らかになっていくので、頭の中で余計な考えが浮かばなくなっていくのでしょう。
 あと、呼吸を数えるという方法も、よく行われるものですが興味深いと思います。


◇ヨガの瞑想の本で、座りながら目を閉じ、まぶたの裏側を見つめる感じで目に映る暗さを見ると良い、というのを読んだことがありますが、これもかなり面白いです。
 目を閉じればただ暗いだけで何も見えないと考える人が多いでしょうが、よく見てみるとその暗さの中にチラチラするもやのような光があったり、ぼんやりした形が出てきてそれが変化したりとさまざまなものが見えます。
 こうやってその暗さを見ていると、日常的な意識から離れていく感じがします。
 それらのものを見続けていると、次第に光が集まって一つに見えてきたりするそうなのですが、私はたまにやるだけなので、そこまでいったことはありません。


◇座りながら周りに聞こえる音をすべて聞く。
 頭の中で考え事をしていると、ふだん気づかない私たちの周りのすべての音を聞くことは出来ません。
 だから、こうして音をすべて聞こうとすると、脳の中のおしゃべりが少なくなり、自然と心が静かになっていきます。
 これは余談ですが、すべての音を聞くのとまぶたの裏を見る方法に慣れると、閉眼片足バランス(目を閉じて片足で立つ)長くできるようになります。
 目をつぶって片足をあげたら、まぶたの裏をみるか、すべての音を聞くようにすると、長く立っていられるようになります。


◇座りながら丹田を意識する意守丹田法。
 丹田の位置は臍の下3センチ、または10センチのところの奥とか、臍から体の内部へ入ったあたりなどいろいろな説がありますが、その下腹部の辺で一番体に力の湧く感覚の起きるところを意識するのがいいと思います。
 丹田は古来から重要視されるだけあって、ここを意識していると体に力が入る感じがします。
 丹田の他には会陰(肛門の少し前)なんかも意識すると気が発生する場所とされています。
 また、足裏の中心のツボ・湧泉や脊椎の真ん中、眉間など、意識すると良いとされるところはいくつかありますが、やり過ぎると気分が悪くなることもあるので注意して行います。


◇最後にちょっと変わったものとして、ティッシュをちぎって軽く丸め、それを耳の穴に詰めて座るという方法があります。
 こうやって静かにしていると、耳の中が動いてティッシュがガサガサと鳴るのに気づきます。
 これは脳脊髄液の循環を促すための頭蓋骨の動きではないかと私は思っています。
(たくさんの骨が組合わさった頭蓋骨は動くようにできている)

 この動きは微妙なので、ふだん私たちは意識してませんが、耳に詰めたティッシュの感触のせいでその小さな動きに気づきやすくなります。
 脳脊髄液は、頭蓋骨と背骨の中にあって、脳と脊髄を衝撃から守る役割をしています。
 そして、頭蓋骨の動きなどによって頭→背骨→仙骨と循環して、脳と脊髄に栄養を運び、老廃物や毒素を取り除く働きもしますが、これはホメオスタシス・体の機能維持に大きく関係しているそうです。
 この循環がうまく行われないと、体の不調の原因になるとされています。
 脳脊髄液の流れを良くするために頭蓋骨を調整する療法(クレニオセイクラルセラピー)もありますが、呼吸を観察しているとだんだん穏やかに整ってくるように、ティッシュの音で気づく頭蓋骨の動きを観察しているとこの動きが自然に促され、少しずつ頭と背骨の歪みが整っていくのではないかと考えています。
 私の場合、頭蓋骨のバランスが悪いからだろうけど、音が聞こえてくるのはほぼ左耳です。
 おそらく両耳の中が同じように動くのが理想的なのでしょうが、そうなるためにはこの動きをじっと見て、好きなようにさせるのが必要だと思います。
 耳の中のゴソゴソという音を聞いていると不思議と心が静かになってくるから、この時には頭蓋骨のポンプが滞りなく働いて脳脊髄液が良く流れているのではないかと感じています。
 と、もっともらしく説明をしてきましたが、この脳脊髄液の話は私の仮説です。
 でも実際にティッシュの動きを意識すると体が整ったり、余計な考えが起きなくなるのを私は経験するので、興味を持たれた方は一度試してみて下さい。


 前回、前々回と決まり事なくただ座るという無努力静功について書いてきましたが、これを行ってみるときには楽な姿勢で座ってほしいです。
 楽な姿勢とはどんなものかというと、ふつうは良くないとされている悪い姿勢をとるのが、一番楽だと私は思います。
 悪い姿勢でいると、見た目にだらしないし、内臓を圧迫したり、腰痛、肩こりなどの原因になったりして健康に良くないので、正しい姿勢を心がけるように、と誰でも言われてきたはずです。
 そして、背スジを伸ばした正しいとされる姿勢を保つほうが疲れにくく、楽であるともされています。
 しかし、そうするのが楽なら、すべての人が正しい姿勢になっていると思います。
 本当は、悪い姿勢でいるときの方が、楽で気持ちいい、と言えるのではないでしょうか。
 姿勢の悪さに悩んでいる人は多いと思いますが、私は姿勢が悪いことはそれほど非難される事柄ではないと思っています。
 今回の記事では、悪い姿勢の意味と価値を説明して、さらにそれを静功に生かすことについて書いてみます。



 誰でも悪い姿勢でいる自分を人に見られたくないと思います。
 多少の姿勢の悪さなら日常そのままでいられます。
 しかし、あまりにだらしない姿勢だと人目が気になり、無理に背スジを伸ばして、人から見て変に思われない姿勢をとるようにする人は結構いるのではないでしょうか。
 悪い姿勢の原因は体の歪みから来ていますが、体の歪みが大きくて本来は姿勢が悪くなっている人でも、人目を気にして筋力を使って姿勢をキープしているということがあると思います。
 そして、体力、筋力がある若いうちはこうやって姿勢を保つことも可能ですが、体力が衰えてくると、見られておかしくない姿勢でいようと頭で考えても体がついていかず、悪い姿勢になってしまいます。
 年をとると姿勢が悪くなるのは、もともと若いころから持っている体の歪みを隠しきれなくなって悪くなる、ということも一因だと考えられます。
 
 でも、悪い姿勢でいることは楽で気持ちよく、そこに自分に対する嘘はありません。
 悪い姿勢でいるときの自分は、ありのままの自分と言えるでしょう。
 一方、正しい姿勢でいようとする自分は、理想を求めている偽りの自分です。
 もちろん、悪い姿勢でずっといればいい、と言うつもりはないですが、ありのままの自分を無視して、偽りの理想を求めてばかりではいけないと思います。



 自然に良い姿勢でいられる人も確かにいます。
 しかし、姿勢の悪い人が正しく良いものとされる姿勢でいようとすれば、心身のエネルギーを消耗させますし、かえって体の歪みを複雑にしてしまう、と思います。
 良くない姿勢は無理がなく、体が欲するものです。
 心地よく楽に休息しているのと同じことなので、こうしていると体にエネルギー、活力が湧いてきます。
 このエネルギーは、体が本当に望む形で姿勢を良くするのに必要なもので、これを得るために体は悪い姿勢をでいようとする、と私は考えています。

 本当の意味で良い姿勢になるためには、悪い(と考えられている)ありのままの自分の姿勢に徹しきらないといけないのです。
 とはいっても、悪い姿勢でいるにも時と場合がありますし、いつでもゆるんでいては何もできないでしょう。
 しかし、姿勢を楽にしていいときは、できるだけ心地よい悪い姿勢をとるべきだと思います。
 悪い姿勢でいて疲れるのは、ずっと同じ姿勢をとっているからです。
 ある程度心地よさに敏感になって、体の望むように姿勢を変えるようにすると、悪い姿勢はとても楽になります。


 私は無努力静功を行うとき、姿勢悪く楽に座ることで、これまで説明してきた姿勢に関する体の原理に気づきました。
 ですから、私としては日常だけでなく、静功を行うときにも楽な、座禅では絶対許されない姿勢で座り、ありのままの自分でいる感覚を知ってほしいと思っています。
 決まり事なくただ座る無努力静功を行っているとき、体が落ちつきなくソワソワ動けば自発動に、動かないで楽に座れば悪い姿勢になります。(これらが明確に分かれて起きるということではなく、動いたり止まったりという感じです)

 座っていると背中を丸めたり、首をうなだれたり、体が傾いて、ときには床に倒れそうになるほどねじれてしまうこともあります。
 傍から見ればひどい格好でしょうが、それこそが偽りのない自分です。
 そういう自分を否定せずに受け入れて座ることができれば、これほど楽で安心感のあることはありません。
 座禅のように正しく座ろうとする努力は、葛藤となってエネルギーの消耗につながります。
 一方、無努力静功ではそのエネルギーのロスがない上に、気持ちよく座ることで体にエネルギーが生まれてきます。
 このエネルギーが自発動を起こすもとになり、少しずつですが体を整えていってくれます。
 姿勢悪く座ってじっとしていると、体(主に背中)が「伸び」をするときのように気持ちよく動いて(よくゴリッと音が鳴る)、体が整うのを感じられるはずです。


 楽な姿勢でいるのなら、いつでもゴロゴロしていればいい、ということになりそうですが、寝転んで楽なのと座って楽なのでは多少意味合いが変わります。
 人間が二足歩行になってからの時間はそれまでの生物の進化の歴史からするととても短く、そのため二本足で立つことは完全に私たちに適応している姿とは言えないそうです。
 それだけ重力に対して二本足でバランスをとりながら動くのは難しく、体に負担がかかるので、体の歪みも生じてくるのでしょう。(四本足の動物に背骨や腰が曲がったり、O脚のものは見ません)
 ですから人は体のメンテナンスのために、重力から解放されて寝転ぶ時間が必要といわれています。
 しかし、重力に対抗する中でできた歪みは、ある程度重力にさらされる座るという行為の中で調整していかないといけないように思います。
 

 私としては悪い姿勢でいるなら中途半端でなく、思いっきりやるほうが効果的と感じています。
 これはなかなか日常生活で行うのは難しいかもしれません。
 しかし、静功で一人座るときなら思う存分やれて、自分を解放することができます。
 この静功を行うと、より良い体に変化するために、それまで隠れていた体の歪みが現れててあちこちが痛くなったりダルくなったりすることがあります。
 これらを病院や整体に行くことなくやり過ごしていくと、体がだんだん整ってきます。



 今回の私の話は常識外れな聞いたことのないものなので、怪しく感じる人も多いと思います。
 でも、一度悪い姿勢で座って、安楽な心身がゆるむ感覚を味わってほしいし、これによって姿勢をよくするためのエネルギーが生まれるという私の主張が正しいか確かめてもらえれば、と思います。
 悪い姿勢でいるのはただただ楽ですから、努力することが嫌いな人にピッタリです。
 注意点としては、楽な姿勢は人によって違い、刻々と変化するものですから、それに合わせて姿勢を変えるということです。
 

 中国の陰陽思想に「陰極まれば陽に転じる」という言葉があります。
 この言葉は私の考えと相通じるように思え、さらに陰を極めようという気持ちを起こさせますが、体に定着してしまった歪みを直すのはなかなか時間がかかるものです。
 長い道のりですが、姿勢を良くするためには、これを地道に努力なく続けるのが一番と私は考えます。



 前回の記事では、無努力静功中に悪い姿勢でいることについて書きました。
 そうやって楽な良くない姿勢で座っていると、顔も一緒にゆるんできて、人に見せられないかんじの顔になる場合があります。
 顔を変に歪めたり、呆けた顔、怒りの表情、無表情、つらそうに顔をしかめる、または無気力、絶望的な表情などいろいろな顔がでてきます。
 これは感情を内に押し込めた、表情が硬い人(私のような)に起こりやすいものだと思います。
 これらの顔は自己イメージや世間体、または生きていくために被った仮面の下に閉じ込められた自分の抑圧された感情が現れたものです。この感情は筋肉や骨格の歪みとして顔に刻みつけられ、ふだんは自身で気づかなくても、悪い姿勢で体がゆるむことで、ネガティブに見えるいろいろな表情が現れてきます。
 人には見せられないこれらの顔は、どれほどネガティブでひどいものに見えたとしても、避けたり否定したりせずに現れるままにしたほうがいいと思います。
 辛く悲しい顔が隠れているのは、その顔をすべき時にそうしないで、自分の中に押し込めてしまったからです。これらの顔、感情を閉じ込め、意識的に忘れようとしても、抑圧されたものは気づかないところで私たちの心身に悪影響を与え、生きづらさの原因になります。
 しかし、良くない顔は外に出て表現されることを望むのか、鏡で見たら自分でさえ驚く顔のままでいると、気持ちが楽になったり安心感があったりします。この良くない顔に(表情に付随してくる感情が現れる時もありますが、その時も)何も反応せず静功で座り、現れるままにしていると、やがてそれらは解消されていきます。
 いろいろな顔になって戻らなくなり、焦ることもありますが、無理に戻そうとしないでとにかくそのままでいると戻ります。
 人には決して見せられない顔でも、それでいれば楽で気持ちよくなって、だんだんエネルギーが自分の中に生まれてきます。このエネルギーが、前回の悪い姿勢の記事で書いたように、筋肉のコリや顔の歪みとして形作られたネガティブなものを取り除く働きをしてくれます。
 悪い姿勢も良くない顔も認めたくない自分の姿ですが、より良い状態になるためにはこの偽りのない姿から始めなければなりません。(といっても、ただ楽な姿勢で座っているだけの簡単なことですが)
 しかし、私たちは、しっかりしていなくてはならない、落ち込んではならない、不平を言ってはならない、と社会や周囲から言われることが多いので、これらのネガティブなものはあってはならないものとされてしまいがちです。そのため正しい姿勢や取り繕った顔でいるようにしますが、こうすることは問題をただ先送りにして複雑にするだけで、それ以上の自然な改善を阻んでしまうと私は思います。
 本来、感情は私たちの自然な反応だから良いも悪いもありません。しかし、ネガティブなものとされる怒りや悲しみなどの感情が起きた時、うまく表現できなかったり、人に弱みを見せられないとそれらの感情を押し殺してばかりいると、隠された感情はいつまでも自分の中に残ります。人がうつ病になったりするのは、この蓄積された感情でいっぱいになり、身動きが取れなくなった時だと思いますが、心を軽く晴れやかにするためにはそれらを片付けなくてはいけません。

 悪い姿勢でいたり、良くない顔が出てくるようになると、静功中だけでなく日常生活でもこれらが突然現れてくることがあります。
 人に見られていない時に変な顔になってもそのままでいればいいですが、外を出歩いているときなどは見られないように注意しています。もし、良くない顔のままで歩いていると警察に通報されかねません。
 私は口をずらして歪めたり、口が閉まりなく開いているような顔になるときには、マスクをして顔を隠してしまいます。こうやって見られたくない顔を隠しながら外出するのは、変な話ですがちょっとした快感があります。
 また悪い姿勢でいるときのリラックス感を感じながら散歩していると、歩き方のバランスが泥酔したかのように悪くなり、とんでもない格好で歩くようになることがありました。それは操り人形みたいに手や足をメチャクチャな方向にあげたりして、なかなか前に進めないかんじの歩き方でした。普通に(人に見られても大丈夫な格好で)歩こうと思えばすぐに切り換えられるのですが、意識をリラックスさせるとその歩き方になってしまいます。
 これらは歩くことに関する体の歪みがでてきたもので、私は体がこれを望むのだから、その通りにさせればそのうち収まるだろうと思い、人の来ない山道でそうやって歩くようにしました。しばらくすると、それはやはり改善されて、今ではやろうと思ってもできません。
 昔、イギリスのコメディ番組「モンティ・パイソン」で「バカ歩き省」というコントがありました。「バカ歩き省」は変な歩き方を普及させる役所で、その大臣や職員がみんなでおかしな格好で歩くというものだったのですが、(YouTubeで見れます)20年以上前にこれを見たときはあまりのバカらしさに笑って、ナンセンスでシュールなコントだなと思いました。でも、自分が実際に同じように変な歩き方を真剣にやるようになった時に、人は潜在的に歪みを解消させる変な歩き方に対する欲求があって、あのコントはそれを無意識的に表していたのではないかと考えたりもしました、

 抑圧された感情が少ない人、体の歪みが少ない人は無努力静功で楽に座っても、悪い姿勢や顔にそれほどならないと思います。しかし、歪みの改善や抑圧されたものの解放が必要でないとしても、楽にただ座れば心身がものすごくゆるみ、気持ちよくリラックスできるので、この方法はあらゆる人に勧められるものだと思います。


 ここまであまり聞いたことのないような話をいろいろと書いてきましたが、無努力静功を行い自分自身の本当の姿を突きつめてみようと思われた方はいらっしゃいましたでしょうか?
 私の現在の姿勢は良いような悪いようなといった感じです。ただ悪い姿勢を通じて少しずつ良い姿勢に向かっているのは確かです、私としてはいつでも自分が一番気持ちよくいられる姿勢でいるだけなのでどちらでもいいですが、この努力のない楽な感覚のままで背スジの伸びた姿勢でいられるようになれれば最善だろうと思います。
 今までこういう極端に思えることをやった人はほとんどいないと思いますが、だまされたつもりで一度試してもらえればと思います。

 無努力静功3では静功を行うときに一番楽な姿勢・悪い姿勢をとることの意義について説明しました。
 静功4の記事ではそうやって体を楽にしていると顔の筋肉も同時にゆるみ、今まで内に秘めて隠していた、人に見られたくないような表情が出てくるというということを書きました。
 そして、良くない顔は表に出てきて表現されれば解消されていくので、自分で見て驚くような顔をしていたとしても、その顔でいれば安心感や開放感があるということも書きました。
 しかし、良くないネガティブな顔でいると、それに伴った感情が出てくるときがあります。その感情はとてもネガティブで激しいものである場合が多く、そういった感情が現れると戸惑ってしまうこともあると思うので、今回はそういったことへの対処法について書いてみたいと思います。

 誰でも辛いこと、嫌なことがあればそれに対する悲しみや怒りなどの感情が自然に出てきます。そのときに感情が表現されずに心の中に抑え込まれると、それは筋肉や骨格のゆがみとなって体に刻みつけられます。そして、その刻みこまれた感情が外に現れてくると私たちはとても不安になるので、それを避けるために体を固くして抑圧された感情からくる体の歪みをブロックしてしまいます。
 しかし、楽な悪い姿勢でいると体がゆるみますから、このブロックがとれてネガティブな顔や感情が現れてきます。
 出てくるのは、今までに抑圧され蓄積されたさまざまな感情です。憎しみや暴力的なもの、いろいろな欲望、自己否定、さみしさ、悲しさ、ねたみ、など、自分の中にこんなに強い感情があるのかとショックを受けるほど強いものかもしれませんが、これらはすべて出してしまうほうがいいと思います。
 激しくあまりにネガティブな言葉が湧き上がってくることがあったり、それが現れることで恥ずかしくなる、自分が自分でなくなる、何か悪い存在に変わってしまうなど、不安な気持ちになったりもするかもしれません。しかし、静功で座りながら起きることを無理に止めずに、そのままにさせれば、やがてそれらの感情は消えていきます。一度これを経験すると、静功を行うたび、また日常生活の中でも、それらの感情は出てくるようになるかもしれないけれど、とにかく抑え込まれたものの気の済むようにさせれば、長い期間かかるかもしれないですが必ずこれは終わります。
 このとき注意してほしいのは、感情を出るままにさせるだけで、感情が望むことはしないようにすることです。実際に行うと警察に捕まってしまうような欲求、感情も出てきますので注意してください。
 感情があまりに強いときには想いを声にしたり、心の中で繰り返しつぶやいたりが止まらないこともありますが、それも自ら気の済むまで行います。

 これが起きると、自分が本当はどのような感情を持っているのか知ることができます。
 そして、その良くない感情を持った自分を見つめれば、そこにはそれ以上でも以下でもないありのままの自分がいるだけであり、それ自体には何の問題もありません。認めたくないかもしれませんが、ただそういう自分であるということを知れば、それ以外のものになる必要はありません。ネガティブな感情があったとしても、それに対して何もせず、感情の動きをそのままに見つめていれば、それは消えていきます。
 ネガティブな感情にとらわれ振り回されて、問題、葛藤が生じるのは、感情的になってはいけないとかマイナスの感情を持つ自分は認めらない、とその感情から逃げたり、抑えつけようとするからです。そうすると結果的に、嫌な感情を自身のうちにいつまでも根付かせてしまいます。

 本音と建前を使い分けるのが日本の社会と言われますが、誰でも建前の部分ではいい顔をしていたとしても、本音では不満や憤りを持っています。その場合は自らの感情がどこにあるか分かっているから、それを発散させたりすることが可能です。一方、不満や怒りなどを良くないもの、考えてはいけないものとしてしまう人もいます。自然な本心に向き合わず、感情の存在を無視して抑え込むようにしていると、それは大きなストレスになって心身の病の原因になります。
 しかし、内にこもった感情を抱えていても良いことはありませんから、それをなるべく吐き出し、発散させるようにする必要があります。
 不満などネガティブなものを発散する方法は遊びに出掛けたり、体を休める、飲み食いや買い物といろいろあると思います。
 インターネットも不満のはけ口として使われている面があって、ネット上ではふだんあまり人に見せられない感情をさまざまな形で吐きしたものも多く、これはこれで精神衛生上の意味はあると思いますが、ネットで悪口等を書いて発散するのでは、いつまでもその感情から抜け出せずとらわれ続けてしまうのではないでしょうが。
 ネガティブな感情は、それを作り出す原因に対して直接抗議するとき以外は、形を変えて別の人にぶつけたりしないで(嫌な感情の連鎖が起きる)、自ら吐き出したり、感情を見つめてそれが消え去っていくようにして処理したほうがいいように思えます。


 無努力静功を行うと起きることして、悪い姿勢、良くない顔、ネガティブな心とそれぞれ書いてきましたが、考えてみればタイトルに使われる悪いやネガティブという言葉は、一般的にはそう見えるということだけで、あまり的確な言い方ではないかもしれません。自然と出てくる姿勢、顔、心は私たちのありのままのものなのだから、良いとか悪いと評価すべきではないでしょう。
 ここまで何度も言ってきたように、ありのままの見た目に良くない姿勢には嘘が一切なく、これは体自身が望むより健康な姿勢につながっているのだから、悪い姿勢、顔、心はむしろ正しい、ポジティブなものであると私は考えています。
 ですから本当は、「悪いといわれるが実際はそうではない姿勢のススメ」とかのタイトルにしたほうがいいのでしょうが、訳が分からなくなってしまうので分かりやすいものにしています。
プロフィール

Author:まやと
努力なしで最大限の成果を得られる健康法を日々探求しています。趣味 野菜料理を作る 音楽を聴く
ツイッター@mudoryoku

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