今回はこのタイトルで、心のしくみや動きについて私がふだんから考えていることを書いてみたいと思います。
 大きく分けて二つのことを書くつもりです。
 まず一つは、私たちの心の自己中心性やネガティブな性質について。そして、その自己中心性や、そこから生じる葛藤・問題をいかに克服していくかということについてです。
 二つめは、人がなぜ病的な独り言を言うようになったり、幻聴が聞こえるようになるかについて私なりの考えを書いてみます。
 いつもの記事のように独断的な考えが多いかもしれませんが、心についての何らかの新しい見方を読んでもらった人に提供できたらと考えています。


 静かに黙って心を観察すると、私たちの意思とは関係なく「思考」が現れては流れ、消えていくのが分かると思います。(ここで使う「思考」という言葉は、自分から考える意味での「思考」とは異なります。感情を伴うことも多いこの心に自然と浮かんでくるものを、思い、考え、想念、思念などどう呼ぶか迷いましたが、このブログでは「思考」と呼ぶようにします)
 この思考は、私たちのいろいろな制約や善悪の区別を持たない自由なもので、人の本能とつながる心の奥からの本音といえるものでしょう。
 また歌やテレビCMのフレーズが繰り返し頭に浮かぶことがあるように、思考の内容は雑多でたわいもないものということもあるかもしれません。

 いつでも休むことなく現れるこの思考を、私たちは自分の気に入るものと、嫌いなものに分けることが多いと思います。気分を良くさせてくれる思考や何でもないものはそのまま受け入れ、嫌な気持ちを起こさせる思考は否定されるべきものになります。私たちにとって思考は自らに従うべき低いものなのです。
 このように、受け入れる思考とそうでないものに区別する意識を、私たちは自分の本当の実体と考えています。
 そして、この意識で心の中だけでなく、外の世界で起きることについても判断し、物事を決めながら生活していると思っているはずです。(思っているはずと書くのは、脳科学では、人が意識で何かするのを決めるよりも前に、そのことが脳で無意識に決められている、と言われているからです。私たちは、脳があらかじめ決めたことを、「自ら考えている」と思っているだけの存在かもしれないのですが、このことは今回の話とは少し離れているのでここまでにしておきます)
 自分の実体と考えている意識が話し、考えている内容をここでは「内言」と呼びたいと思います。内言は、思考や現実を肯定・否定したりしながら常に心の中で話されています。
 人の心は、無意識に現れる思考と、意識的に話される内言の内容で構成されていっぱいになっています。これらの言葉が、心の中で話されていない事はほとんどないと言ってもいいでしょう。

 自然に浮かんでくる思考の中には、否定しようとしてもどうしても拭えずつきまとうものや、自己中心的なもの、暴力的なものなどがあります。
 実行するのが難しく、行えば犯罪になるような思い・欲求が現れる経験は、誰にもあると思います。
 これらの欲求は、真剣に取り合わなかったり、別の形に置きかえられたりして、ふつうは自然と消えていきます。
 そして、犯罪になるような欲求に対しては、社会的な刑罰という抑止力が働いています。
 また、そういった欲求に従えば、多くの人と自らを傷つける結果になるということを知っているので、たいていの人は罪になるような欲求を実行しないのだと思います。

 一方で、犯罪になるようなものではありませんが、私たちを悩ませる、やっかいな思考も数多くあります。
 ネガティブなものと考えられる感情、嫉妬や憎しみ、欲深さ、怒り、暴力的な感情、自信のなさ、気弱さ、孤独感など・・これらは誰もが感じるものでしょう。
 これらのネガティブな感情を伴った思考が現れたとき、私たちはこれらを抑え、否定しようとすることが多いのではないでしょうか。
 思考を善悪で区別し、コントロールしたい意識は、どうしてもネガティブなものを認められません。(この自らを区別しようとすること自体が利己的なのですが)
 「こんな考えを持ってはいけない」「そんな自分であってはいけない」「みっともない。恥ずかしい」などの内言ともに、嫌な気持ちをもたらすネガティブな思考を持ってない理想的な自分であろうと努めます。
 しかし、理想の姿になろうとする意識的な力より、心の奥からの本心とともに生まれてくる思考のほうが、より強い力をもっています。ネガティブな思考をいらないものとして排除し、心を変えようとすることは、誰もが経験するように、簡単なことではありません。 
 ありのままの本能的・自己中心的な心(思考)と、理想(自己意識・社会規範)の争いは誰の中にもあり、昔から道徳・宗教でその解決法を延々と考えられてきたテーマでもあります。
 この勝つのが難しい争いが、悩みや葛藤を生みだす原因となります。そして、いつまでも続く悩み・葛藤は、私たちの活力をすり減らすことにつながっていきます。

 
 自ら悩んで元気をなくすくらいなら、理想など持たずに、ありのままの本音を肯定した方が生きやすいとも考えられます。
 そして現代は、自己中心性をなくそうとする理想を持つよりも、自己中心的な欲求・感情に従って生きることの方が正しいと考える人が多くなってきていると言えるかもしれません。そういった人が増えた社会で生活すると、人の気持ちを思いやることが少なくなって、自己中心的な感情や憎しみ、欲深さを持つことが、だんだん当り前になってしまうのではないでしょうか。
 利己的・暴力的な感情を肯定することは、結果的には自らに苦しみをもたらすことにつながると思います。しかし、人がこのことに気づかずにいると、自分さえよければいいという感情・言動は、止まることなく社会にまきちらされ、増殖し続けます。

 現代の社会にエゴイスティックな感情があふれてないことを願いますが、現実には人を傷つける出来事がとても多く見られます。
 いじめや青少年による陰惨な事件、ストーカー行為、DV,児童虐待、パワハラ、マタハラ、ブラック企業にオレオレ詐欺など、社会のモラルの低下を表わす問題はたくさんあります。人の心が荒んで生きにくい世の中になっていることは確かでしょう。
 こういったモラルの低下を立て直すためにはまず教育、と政治は道徳教育の強化を行おうとしています。しかし、道徳教育は政治が、お上をあれこれ批判しない人間を作る、という裏の目的で導入されようとしているものなので、成功することはまずないと言えるでしょう。
 政治が社会を思いやりあるのものにするためには、自己中心性をもたらしている大人の社会の問題に真剣に取り組むのが先だと思いますが、政治自体がこの問題の元凶となっている面もあります。

 自ら心を理想的なものに変えるのがうまくいかないように、社会的に罰則や規制を強めたり、啓発・道徳教育を行ったりしたとしても、外側からありのままの心を変化させるのはとても難しいことでしょう。
 政治的・宗教的な洗脳のように、徹底して心を変えてしまおうとしても、ありのままの心は残り、洗脳や厳しい規制を必ず覆そうとします。

 (次回に続きます)


 
  

 (前回からの続き)

 嫉妬、憎しみ、自信のなさなど、心に自然と浮かんでくるネガティブな「思考」を否定して、理想の自分になろうと苦闘することは、いつまでも続く葛藤・悩みをもたらします。
 また、ありのままの思考の自己中心的な感情、暴力的なもの、欲深さなどを肯定した世界の中で、思いやりなく生きることも望ましいことではないでしょう。利己的・暴力的な心を肯定して生きることは、自らに苦しみをもたらすはずです。
 多くの人は、実際のところ、自然に起きる思考・感情と自分の意識の間のバランスをとりながら生きていますが、このことで悩んでいる人が多いのも事実だと思います。
 思考を肯定・否定することは、どちらにしてもありのままのネガティブさを心の中に蓄積させて、強めてしまう結果をもたらします。
 思考に対して内言で、「ネガティブだ・暴力的だ」などと言ってしまうと、思考は実際にネガティブなものとなって定着し、心を乱します。ですから、思考を勝手にネガティブなものにしているのは、私たち自身と言えるのかもしれません。
 また、欲深い心を肯定するのはもちろん欲深いことです。でも欲深さを否定して、欲深くない「私」になろうと欲する意識も、ある意味、欲深いと言えます。
 同じように、暴力的な思考を肯定することは暴力ですが、暴力的な心を非暴力の理想で否定し、排除しようとすることも、実際は、暴力的な行いではないでしょうか。
 無欲や非暴力といった理想を「私」が掲げて、ありのままのものに押しつけても問題は解決しません。

 常に「ああしろ」「こうしよう」「それはいい・ダメ」という内言を発している私たちの意識は、思考を区別して否定・肯定することしかできません。
 この理想と現実の葛藤、また自己中心性の克服のために私たちが行えることはどういったことでしょうか。
 そのために必要なのは、ネガティブな思考を否定・肯定する「私」という意識なく、「思考」に直接向き合うことだと思います。
 まず、内言で「ああすべき」「自分はこれでいい」と言うことを止めて、黙ってみることから始めてみます。そうすると、心の中には自然と浮かんでくるあるがままの思考だけがある状態になるはずです。
 いつも「私」にあれこれ言われてきた思考をただ見つめて、それの動くままにさせます。
 これは、思考を肯定するということではなく、暴力的だったり、嫉妬していたり、自信がなかったりする心の状態に、何もせずにとどまるということです。そして、思考が語ることを聞くようにします。
 そうやって意識的な言葉(内言)なく心に向き合えば、ネガティブな(と考えられてきた)ものが生まれてきた原因が見えてくるようになるはずです。
 この原因をただ知るということに大切な意味があると思います。
 たいていは、「原因が分ったら対策を」と私たちの意識はすぐ考えがちですが、そうするのは、再び否定と葛藤を繰り返すことにつながります。大切なのは、判断・対策などの自分の考えではありません。
 あるがままの感情にこちらから干渉せず、それがどのように動くか観察すれば、その感情の持つエネルギーは自然と解消されてくようになります。そうすると、ネガティブな思考が心に根付いてしまうことはなくなるでしょう。私たちにできるのは、その動きをただ見守ることだけです。
 

 これほど簡単に心の問題が割り切られて解決されることは、実際には難しいと思います。
 私も思考と理想の葛藤を持って悩むことは今でも多いですし、自己中心性を片付けた人間であるとは全くいえません。
 しかし、思考を内言なくただ見つめることは、とても効果のあるネガティブな思考の克服法です。これは普通それしかないと考えられる、思考の否定・肯定という方法を超えたものだといえます。私自身、思考をそのままに知ることで、悩みや自己中心性に陥らずにいられたことはたくさんあると思っています。

 自らのコントロールできない感情や利己的なものに悩む人は、これを行ってどうなるか観察してみることをお勧めします。
 意識がおしゃべりすることを止めて、思考が片づけられ、ネガティブなものが重くのしかからなければ、心はシンプルになってきます。
 「私」という限られた意識から解放されるほど、今まで気づかなかった周りの世界のさまざまなことが見えてくるはずです。「私」なしに物事を見ることができれば、それだけ心に喜びがたくさん訪れると思います。

(こうは言っても私の心はいつも言葉でいっぱいですが) 
 

 人は誰でも独り言を言うものでしょうか?
 一人でいるとき、心に思っていることを短いフレーズで口にしたり、パソコンやテレビに向かって何か言ったりする、という人はけっこういると思います。また、周りに人がいないと思って言った独り言を聞かれて、恥ずかしい思いをしたなんていう人もいるかもしれません。
 私の場合いつも口にしてはいませんが、ときおり言うかんじです。

 独り言を言う原因としては、いくつかのことが考えられています。

 ・ひとりでいる時間が長いと独り言が増える。

 ・言葉を発して脳に強く印象づける。(自己暗示)

 ・周りの人に自分の存在・状態を知らせる。

 ・アーティストや独創的な研究をする人が言うことが
 多いので、創造性との関連がある。

 そして、独り言を言うのは心身の緊張をほぐす効果があり、精神衛生上好ましい、という考えもあります。
 
 とはいっても、一般的には、独り言をいつも言っている人のイメージは「変わっている」「周囲を気にしない」「ストレスが多そう」など、良くないものになるのではないでしょうか。
 楽しげに独り言を言うという人もいるでしょう。しかし、ネガティブな印象を与えたり、精神的な問題を疑わせたりする独り言というのも確かにあります。独り言をよく言う人は、このようなネガティブなことを言っている場合が多いかもしれません。
 今回は、あまり良くない独り言を言うようになる原因や、そういった独り言を言うのと同じ仕組みで起きていると考えられる幻聴について書いてみます。そして、それらをいかに解消するかということについても、私の考えを書いてみたいと思います。
 これらのことは前々回前回の記事の、思考と内言についての内容とも関係があるので、そちらもよろしかったらご参照ください。


 一般に良くない独り言とされるのは、

 ・誰もいないのに誰かと話しているような独り言
 ・一人で笑う
 ・内容が意味不明
 ・周りに人がいても言い続ける
 ・悪口・殺人をほのめかす攻撃的な内容
 ・「もうダメだ」などの落ちこんだ内容
  といったものです。
 これらの独り言を言うようになるのは、強いストレスや孤独を感じ、精神的に弱って気持ちの余裕を失ったり、考えがまとまらなくなったりするからだ、と考えられています。
 こういった独り言を言うようになると、うつ病などの精神的な病の可能性もあるかもしれません。
 それでも胸の中にあることは、吐き出さないとストレスはさらにたまってしますので、独り言は我慢しないでどんどん言う方が良いと思います。これは独り言を言うことで、不安定になっている精神のバランスをかろうじてとり、良くない状態を解消しようとしている、という意味もあります。
 そして、精神状態が悪くなる大きな原因は、やっぱりストレスなので、まずストレスの原因になっているものに対処して、それを取りのぞいていくようにするべきです。
 また独り言をブツブツいう人が近くにいたりすると、周りの人は「変な人」「かかわりたくない」と思ってしまいがちです。しかし、独り言を口にしている人は、精神的に大変な状況にあるということを知って、気づかってあげることも必要かもしれません。


 しかし、誰でも良くない独り言を言うようになるわけではないですから、そうなりやすい性格というのはあるかもしれません。
 良くない独り言は、先ほど言ったように、うつ病などの精神疾患につながるところがあります。ですから、真面目すぎてストレスをため込んでしまう、自己表現が苦手、などといった精神疾患になりやすい性格は、良くない独り言を言うようになる人の性格とかなり重なっていると言えるはずです。
 そういった人は、自らの内的な思い・欲求への抑圧が強いといえるのではないでしょうか。この抑圧が強い人は、自分の欲求に従った生き方ができないので、ストレスを抱えやすくなります。
 あまりに内的抑圧が強くて、几帳面に物事を考えすぎると、自分の本当の気持ちも分からなくなってしまい、それが生きづらさにつながっていきます。
 また、自然な気持ちを抑えて生きているぶん「自分はこれだけ我慢しているのに」と不満を募らせて感情的になったり、根深い恨みや憎しみを持ったりしやすくなります。
 ですから、誰でもなるべく本音に近い生き方をした方が良いというのは確かでしょう。
 内的抑圧が強い人でも実際は、欲求・感情に従う素直な気持ちで生きたいと思っていると思います。
 しかし、どうしても抑圧的になってしまうのは、幼少期に自らの欲求や存在を十分に認められずに育てられた、ということがあるはずです。そのように育てられた人にとって、ありのままの欲求・感情というのは、ストレートに現れると不安な気持ちを起こさせるものになってしまいます。
 このために起きる強い内的抑圧が、独り言につながっていると私は考えます。

 人は「これだけ我慢している」、などのさまざまな言葉を、心の中で話しています。
 この心の中で話される言葉は、内言と呼ばれます。内言は、人が自分自身の実体と考える意識によって話されるものです。
 そして、前々回、前回の記事で述べましたが、意識は内言の言葉で心に無意識に浮かぶ思考・感情をコントロールしています。さらに、外の世界で起きるあらゆる物事に関しても、それを内言でもって判断しながら人は生きている、と言えるはずです。
 こうやって内言(意識)と共に暮らしていく中で、その生活に多少でも納得できている人は、自身の存在に対して疑いを持ちません。
 しかし、さまざまな理由から生きることがうまくいかずに行きづまってしまうと、内言によって物事を判断してきた自分の意識・存在に嫌気がさし、否定したくなります。
 それまではその意識が、自身の心に現れてくる思考・感情をコントロールし、抑えながらうまく生きられるようにしてきました。
 しかし、その意識でもって生活しても、物事がどうにもうまくいかないので、その意識自体を否定したくなります。
 そして、もっと理想的で良い生き方をもたらしてくれそうな主体を、これまでの意識の上に作りだし、それを自らの新しい実体と考えます。
 そうするために、意識が話していた内言より大きな声「独り言」を言うようになる。この自らの意識をコントロールしようとすることが、人が独り言を言うようになる内的要因だと私は思います。
 (自分のとても恥ずかしい経験を思い出したときに、大きな声を出したくなったという人はいると思います。これは独り言ではないですが、あの行為が意識を打ち消そうとして独り言を言うかんじと同じものです)
 独り言を言って一時的に自らを安定させられても、それはただ抑圧を強めているだけなので、結局は自らを追いつめてしまいます。
 抑圧が強まれば、感情が反発して攻撃的になる、考えがまとまらなくなる、意気消沈する、などして独り言は良くないものへと変わっていくことが多いでしょう。
 
 それまでありのままの思考・感情をコントロールしていた内言をさらにコントロールする独り言を作りだし、それを主体として生きるということは、ありのままの欲求、本音から複雑に遠ざかることになります。
 ありのままの思考・感情は心の奥底から生まれる、雑草のような生命力を持った強いものです。人は、そのありのままのものを理解し、それに向き合いながら生きていかないと、どうしても生きづらくなってしまいます。

 (次回に続きます)




 (前回からの続き)
 
 ありのままの思考・感情をコントロールする意識の内言や、その内言を抑圧する独り言も、当然のことですが、言葉で話されています。
 この言葉の内容は、「~しなければ」「~すべき」といった理想や抑制・過剰な規則正しさ、人からどう見られているかという世間体、成功を求める心、さまざまな外からの知識、などから形作られたものです。これらは人の頭で考えられた言葉ということだと思います。
 しかし、ありのままの思考・感情は、意識を超えた、本能に基づくところから生まれてくるものです。その力は強いため、内言や独り言といった頭で作られた言葉でいくら否定しようとしても、消し去ることは簡単ではありません。
 否定され、抑圧されたありのままの思考・感情は、心の中に歪められた形で残ります。それらは自らをなんらかの形で表現しようと暴れるので、心が不安定になります。心が不安定だと再び抑制が必要になり、さらに心が不安定になって…と繰り返し続く悪循環を招きます。

 悪循環のなかに陥っても、精神状態を悪くする外的な要因であるストレスが少なかったり、周囲の人のサポートがあったりすれば、心の安定は保たれて、状態が改善されることもあるでしょう。
 しかし、精神状態や生活全般に関することが、さまざまなことが重なりより悪くなってしまうと、今まで独り言を言っていた主体が嫌になり、否定したくなります。
 独り言を言う主体でもすべてが上手くいかないので、いろんなことを知っていて物事がうまく行える、より理想的で賢い主体が必要と考えるのです。
 けれども、独り言を言う主体以上のものは、意識的には作ることができません。そういった時に、心が自らをコントロールしようと無意識に作りだすのが、幻聴だと私は思います。
 幻聴の内容は、自らを否定するものや命令するものが多いそうです。これは、今まで内言・独り言で言ってきたものと変わりません。だから、内言・独り言・幻聴が、自身をコントロールしようとする仕組みは同じだと言えるでしょう。

 幻聴が聞こえるまでに精神状態が悪くなるのは、自己コントロールが過剰になりすぎていたり、自分を否定しすぎていたりしている、ということになるのでしょう。
 自己抑制が強く、否定的に物事を見すぎるというのは、幼少期の育てられ方によるところが大きいと思います。
 この性格や考え方の傾向を変えるのは、とても難しいことです。それには、抑圧が心の不安定を招くことの繰り返しを断ち切り,たくさんの考え・言葉で複雑になりすぎた心をシンプルにすることが必要です。
 そのために何をすればいいか、また何が大切かについて、私の考えをこれから書いてみます。

 まず独り言を言ったり、幻聴が聞こえるという人は、心を整理するために、自らがいつも行っている抑圧を解いたほうがいいと思います。
 やりたかったけど我慢していたことは、なるべく行うようにします。もちろん警察のお世話になるようなことや、借金をするとかの問題を上積みすることはよくないですが、それでも、周りに気兼ねしていた好きなことを行う、言えなかった不平不満を言う、またやりたくないことは止めてしまう、などを思いきってやってみるのは悪いことではないでしょう。
 ネガティブな思考・感情・欲求も、独り言、内言で抑えることなくどんどん言ったり、人のいない所で溜まっている感情を大声で叫んだりして、思いを一人で吐きだします。この思いは、あまり人に聞かせられるものではないはずなので、一人で徹底的に出すのがいいと思います。
 ひどい言葉がでてきて、こんなことを言うと自分がとんでもなく悪い人間になってしまう、と心配になって怖くなるかもしれません。でも、心にあるものを抑えこまずに吐きだしてしまうと、これまで蓄積され渦巻いていたネガティブなものは発散され、その力は弱まってきます。
 ネガティブなものが少なくなって心の中の抑圧が弱まれば、独り言や幻聴が現れることも減ってくるはずです。

 ありのままの思考・感情は、決してきれいなものばかりではありません。人は理性や理想といったもので、ありのままの思考・感情を強制的に従わせようとしたり、心から消し去ろうとします。しかし、それが簡単に成功することはありません。
 この自分の中で起きる争いから、葛藤や悩み、終わることのない問題が生まれてきます。押さえつけられた本心は、必ず自らを表現しようと反発するので、抑圧するのは決して良い方法ではありません。
 このありのままの心への対処法は、いつでも抑圧しかないと考えられてきましたが、それとは違った取り組み方があります。
 そのためにまず、ありのままのものを抑圧しないようにします。そして、否定せずにはいられない、または肯定すると自己中心的になってしまうネガティブな思考・感情が、心に現れるのをただ見るようにしてみて下さい。それまでのように、あれこれ否定・批判することなく見ます。
 これは内言や独り言の言葉なく、黙って心の動くままを見つめるということです。
 言葉の本質的な性質には、分類や比較ということがあります。言葉で何かを考えることには、常に他のものや以前のものといった事との対比が含まれています。そのため、人は言葉を話すことや考えることによって、無意識に対象の優劣をつけることになりがちです。
 それがありのままの心の批判や否定につながり、何度も言うように、心の反発・不安定を招きます。
 しかし、(このことは前々回の記事に書きましたが)ありのままの心を静かに見つめ、心が動くままにさせれば、ありのままのものは自ら持つエネルギーを解消してしまいます。したがって、それが心に根付くことはありません。
 干渉して動くのを邪魔されるから暴れるわけで、言葉なく見つめ、十分に動くようにさせれば、ありのままの思考・感情は消え去っていきます。
 例えば、人の不幸を望む心が起きたとき、ふつうはそんなことを考えてはいけないと思ったり、それに同調してすすんでそう思ったりすると思います。
 しかし、自然に現れた不幸を望む心を、否定も肯定もせず黙って見つめれば、それは現れた時と同じように自然に消えていきます。たいてい私たちは、起きた思いに対して何らかの反応・判断をしてしまいますが、そのことがネガティブな思いに力を与えていることになってしまうのです。
 すべての問題はネガティブなものの中にあるのではなく、それを抑えこもうとすることから起きてきます。
 憎しみや怒りなどのネガティブな感情が、起きなくなることはないですが、起きたら起きたでそのつど見つめて片づけていけばいいだけのことです。
 また、否定・批判しないで思考・感情を見つめ知るようにすれば、それらがなぜ起きてくるかの原因がわかることもあると思います。
 

 独り言と幻聴への対策として二つのことを書きました。 
 一つは心の中にある感情・思いを制約しないで気のすむまで吐きだすこと。
 もう一つは、そうして心を整理した後に、ありのままの心をコントロールせずただ見つめるようにすることです。
 共通して言えるのは、こちらから心に対してどうこうするのではなく、心の動くままにさせるということになります。
 独り言や幻聴に悩む人は、抑圧的な傾向が強いので、心に起きることをただ見つめるというのは、慣れないことかもしれません。しかし、これを行うことで、私たちの意識を超えた心の奥にある知恵が働き、さまざまな問題が自然に解決してくるということもあります。
 

 最後に、一般的なことで注意する点としては、やっぱりストレス対策になると思います。
 抑圧的すぎる性格の人は、本心に従って生きる方が楽に生きられると思います。世の中、本心に従いすぎて問題があるという人も多いですが、気兼ねしすぎることもよくないでしょう。人生は一度きりなのだから、思ったこと、好きなことはなるべくやるほうがいいと思います。
 その他には、心を安定させる脳内物質セロトニンをよく分泌させるために朝型の生活にして、日光を適度に浴び、軽い有酸素運動を行うようにします。
 あと食事の面ですが、バランスのとれた食事を心がける必要がもちろんあります。外食やコンビニ、加工食品には、食物繊維や微量ミネラル・ファイトケミカル・酵素などの重要な栄養素があまり含まれないので、なるべく控えた方が賢明です。
 


 「症状即療法」という言葉があります。これは東洋医学・野口整体・西式健康法などでよく使われる言葉です。
 その意味は、「さまざまな不快な症状は、体が自らの悪いところを治そうとして起こすもので、症状自体が療法になっている」ということを表しています。
 例えば、風邪をひくと発熱したり、セキ・鼻水がでたりします。これらの症状は、「症状即療法」の考えからすると、風邪が治るために必要なものです。熱が出るのは自らの免疫力を高めるためですし、セキや鼻水にはウィルスを排出する働きがあります。
 そのほか、かゆみや痛み・下痢など、多くの症状も体が自らを治し、守るために現れるものだといえます。
 「自然治癒力」という言葉がありますが、これは体が潜在的に持っている治す力のことで、「症状即療法」と同じような意味だと言えるでしょう。
 また最近、薬を飲むことの弊害を述べた本を多く目にします。それらも薬を飲まずに、「症状即療法」(自然治癒力)の働きを十分活かすことを勧めているものだと思います。
 しかし、大多数の人が正しいと信じる現代医学では、体が自らのために起こしている症状の意味を考えることはありません。そこでは大抵、現れた症状をただ悪いものとみなし、それを薬でなくせばいい、ということが行われています。

 
「思考 内言 独り言 幻聴」の1~4の記事で、ありのままの思考・感情を私たちの意識が抑圧すると、さまざまな精神的な問題につながるということを説明しました。また、ありのままのネガティブな思考・感情は、抑えつけずにそのままにさせれば、自らのエネルギーを解消して消えていく、ということも書きました。
 この心の中の抑圧と現代医学の行う症状の抑制は、よく似た現象と言えるでしょう。
 どちらも、自然に現れるものである、思考・感情や症状を抑えることで問題を複雑にしている点、そしてネガティブな考えと症状は、何も手出ししないで、その起きることを全うさせる必要があるという点が共通していると思います。
 現代医学はあらゆる症状を薬でなくそうとします。(緊急時には、それが絶対に必要なときがありますが)
 そして、多くの人もなんらかの不快な症状があったら、それを薬で抑えることが正しいと考えています。
 薬を飲めば症状は無くなり、良くなったように思えますが、それは一時的なことです。
 薬で抑えられた症状は簡単に消え去ることなく、体の中になんらかの形で残ります。
 「症状即療法」の働きは、本能的な強い力を持つものですから、症状は抑えられても必ず再び現れ、自らを解消しようとします。(同じものでなく違う症状で現れる場合もある) 
 したがって症状を消すためには、それを全うさせる必要があります。しかし、症状が現れるたびに安易に薬を使ってしまうと、体が本当に求めている解決から遠ざかってしまうと言えるでしょう。

 この現象は、ありのままのネガティブな思考・感情の抑圧→ありのままのものの反発→心の不安定化→より強い抑圧→さらなる反発--という心の悪循環と同じものです。
 症状を時おり薬で抑えるだけなら、自然治癒力のある健康な人の場合、それほど問題は起きないかもしれません。
 しかし、体の弱い人や常に薬を飲んでいる人は、症状と抑制の繰り返しの中では、症状が本当に無くなることはありません。そのため、症状をより強く抑えないといけなくなり、薬の量が増えて自然治癒力も弱まっていきます。
 こういった悪循環を避けるためにも、「症状即療法」の働きや症状と抑圧の関係について理解して、うっとうしく感じられるさまざまな症状の見方を変える必要があると思います。
 
 
 救急医療や外科手術、ケガなど現代医学によって私たちが助けられていることは数多くあります。
 ですから、私たちはすべて体のことは病院で診てもらえば間違いないと信じていると思います。そして、何らかの不調で病院に行って、薬をもらわずに帰ってくることは非常に少ないはずです。(というか、誰もが薬をもらうために病院に行きます)
 しかし、そこで出される薬が有効ではないという例は、これはほんの一部ですが、以下のようにあります。

 ・風邪に抗生物質を処方する(ウィルスで起きる風邪には無意味。逆に体を守る働きをする腸内細菌を殺してしまう。風邪、インフルエンザは薬を飲まずに安静にしていることが第一です)

 ・解熱剤(発熱はウィルスを殺すために必要。また子どものインフルエンザ脳症は、ある種の解熱剤が原因とも言われている。どうしても使うときはアセトアミノフェン系の製品を)

 ・ステロイド剤(症状→抑制→症状の典型的なもの)
 
・新型抗うつ剤、抗がん剤(医者やマスコミがほとんど口にしないこれらの薬の弊害については、専門書やネットで一度は調べるべきだと思います)

 さまざまな慢性疾患の薬は症状を抑えるだけで、本当の意味で病気を治すためのものではないそうです。
 コレステロール値や血圧をコントロールするために飲む薬なども、その基準値の正しさ・数値のコントロールの効果を疑問視する意見が多くありますし、副作用の恐れなどもあるそうです。
 このようなさまざまな薬の弊害については、安保徹先生の本などに詳しく書かれているので、興味ある方はそちらをご覧ください。
 飲む意味のない薬や病気を治さない薬、効果が疑問視されるもの、これらを長年飲み続けることが、体にダメージを与え、それが深刻な病気につながることは十分考えられるのではないでしょうか。
 薬の害を理解して、なるべく薬を出さない医者もいると思いますが、その数は非常に少ないでしょう。
 現代医学のシステム、医者の仕事が薬を出すことによって成り立っていて、こうしないと経営としてやっていけない仕組みになっているのだと思います。そして、病気の人に(そうでない人にも)なるべく長く、できれば一生薬を飲ませようとしている、と考えるのは少し疑い過ぎでしょうか。
 しかし、人は医学のシステムを維持するために存在しているわけでは決してありません。私たちは自らの健康を守るために薬のことについて知り、いらない薬を飲まないよう自己防衛するべきです。

 症状→抑制→症状の弊害に陥らないために、まず、風邪や胃もたれなどの軽い症状で安易に薬を飲まないようにしたいものです。(風邪を薬で治さないのが大切という野口整体の考えについての記事も良かったらご参照ください。「風邪の効用について」
 そして、さまざまな症状が現れたときは、
 しっかり休養をとる。
 ストレスがあったら、それを解消するように努める。
 運動不足の場合、適度に運動する。
 バランスのとれた質の良い食事をする。(食べ過ぎていたら食べる量を減らす)
 民間療法や代替医療を行う場合は、極端なことをしないものや、高価すぎないものがいいと思います。(一応このブログでは、薬に頼らずに症状を全うさせるための方法をいろいろ紹介しているつもりです)
 こういった基本的なことを行って、あとは「症状即療法」の働きに任せます。
 薬を飲むのは、これらで良くならなかったときの最終手段ではないでしょうか。

 不快な症状もネガティブで嫌な感情も、原因と必要性があって現れます。
 それらは自らのエネルギーを持っています。そのエネルギーは私たちが干渉すると反発して力を大きくしますが、何もしないでそれの動くままにさせると、だんだん力を弱め消えていきます。
 その過程を見つめると、最初は無秩序に見えたものが、秩序をもたらそうとしているものだったことが分かるはずです。心と体は、いつでも自らを最高の状態にしようと努めてくれています。
 しかし、このことについての理解がないと、私たちの意識は、症状がいつまでも続くと考えたり、嫌な感情から逃げ出そうとしたりします。自分の一部であるそれらのものを分断して、自らと異なるものとしてしまうのです。
 そして、その症状や感情を薬や言葉ですぐに消し去ろうとすることで、かえってそれらを心身に根づかせ、自らの中で際限なく起きる無意味な争いの原因となります。
 「私」が安心するために、自らの感情を肯定するものと否定するものに分けたり、薬で症状を抑えたりする。こういったことからすると、心の中であれこれ考えて安心を得ようとする「私」という意識が、すべての問題をもたらす元凶であると言えるのかもしれません。「問題、問題」と騒ぐ「私」が、問題だったのです。
 しかし、ネガティブな思考の浄化も、症状即療法」も、そういった「私」がないところから始まります。
 そして、それらが起きるのは、心や症状をただ黙って見つめるときだけです。

プロフィール

Author:まやと
努力なしで最大限の成果を得られる健康法を日々探求しています。趣味 野菜料理を作る 音楽を聴く
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