今回はやり方を身につけると、きっと役に立つ、かもしれない視野の広げ方を紹介します。
 視野を広げるといってもものの見方、考え方を広くするという方ではなく、直接的な見る能力のことです。
 これは私が視力を良くするために試していたトレーニングの一つです。視力回復の成果はあまり感じられないのですが、視野を広げる効果はあるのでたまに行っています。


 やり方はとても簡単です。
 まず両手を水平に横へ広げて指を軽く曲げます。
 その指を適当に動かし、顔は正面を向いたまま、両目の端に両手の指の動きを同時に見ます。見えるめいいっぱいの所まで両手を持っていって下さい。 
 次に、横に広げた手を右手は真上、左手は真下に持っていきます。この時、両手(指は動かしたまま)を両目で見れるギリギリの所に位置させながら移動します。
 そして縦で両手を同時に見たら、手を初めの横の位置に降ろし、今やったのとは反対に左手を上、右手は下にもっていきそれを見ます。
 両目で見るというよりはとらえる、感じると言ったほうがいいかもしれません。


 私は視力を良くするつもりでこれを続けていました。
 そんなある日、道を歩いているときに、車が横から来るか、目の端で確認している自分に気付きました。前を見たまま顔を向けずに見ることができたんです。
 それがあって視野が広がっていることが分かりました。(危ないのであまり勧められる方法ではないのですが)
 これは横に広げる訓練の成果でしょう。
 まだ縦の訓練の成果は感じたことがありませんが、いつか地面に落ちているお金を見つけることがあるといいなと思っています。^^


 この視野の広げ方を覚えると、日常生活ではさっき言った、顔を向けずに車が来るか確認できたり、さらに何かの危険をいち早く察知することがあったり、スポーツをする人なら(サッカーやバスケなどでは特に)周りの状況を見ないフリして知るなど、とても役に立つ事がいろいろと・・・あるかもしれません。


 (前回からの続き)

 自発動の起こし方については、私も偶然見つけた感じだったので、ハッキリと確かな事はいえません。
 しかし、自分なりにこうすればいいんじゃないか、ということを今回説明していきます。


 何か真面目な式典やお葬式などに出席すると、真剣な雰囲気なので皆、体をめったなことでは動かさずにじっとします。
 そんな時、初めはじっと動かないでいられるけど、10分、20分と経つにつれ、ツラくなってきてモジモジ、ソワソワと動き出してしまう経験が誰にもあると思います。
 この動かないようにしてるのに体が勝手に動きだす感じが、自発動の感覚をつかむときに役立つと私は考えています。


 まず、最初に正座をして、目を閉じて動かないようにします。意識はリラックスさせて、ボーっとしておくと自発動は起きやすいです。
 正座が出来ない、苦手という人は立ってやってみて下さい。 
 そのままの姿勢で時間が経つと、だんだん体を動かしたくなってくると思います。
 座禅・瞑想などではこういうとき、体を動かさないのが良いとされるのでしょうが、ここでは体の求めるまま、この動きに意識を添わせ身をゆだねてください。
 目をつむって体に何が起きるか観察していると、意識したのではない動きが出てくるのが分かると思うので、それをコントロールせずに一緒に動いてみると、だんだん動きが連続してくると思います。
 
 自発動が起きたら後はただ動くままにします。(正座は崩して構いません)
 激しく動いたり、ものすごい体勢になったり、全身のあらゆる箇所が動いたりして怖くなる事もあるかもしれませんが、続けていくと必ず止まるので動きにまかせてください。
 ここで大切なのは、動いている間の意識の感じをつかむことです。
 その意識の感じを覚えると、次に行う時に自発動を起こすのが早くなり、正座以外の姿勢でも起こせるようになります。さらにその意識をいつでも起こせるようにすれば、いつでも自発動の動きが出せるようになります。



 そのほかの自発動の起こし方については、気を入れて起こさせる整体・気功の専門家もいるみたいです。
 自分で行うにはネットで調べる限り野口整体のやり方しか見当たりませんが、具体的に詳しく説明されているので参考にしてみて下さい。



 自発動を否定的に見る人も少なからずいます。
 これを長い期間行ってきた者としては、自発動は人の意識を超えた生命本体からの、健やかになろう、最善の状態を作ろう、とする働きの現れと言っていいと思っています。
 これまでの私の体の変化からしても、決して悪い病的なものだとは思えません。
 しかし、人によっては合う合わないがあるかもしれないので、一度体験して心地よくなるのか、不快になるのか自ら判断してみて下さい。
 偏差(気功の用語で功法をやりすぎて心身が病的な状態になる事)の問題があると言われますが、私としては無理に頑張ってやったり、努力する気持ちでやったりしなければ危ないことはないと思います。つまり、やりたい時にやって、止めたくなったら止める、気乗りしない時はやらないという事です。


 自発動という気功用語を使いながら、気についてはほとんど触れませんでした。
 私は気をほんの少ししか感じられないので、自発動における気の働きはよく分かりません。気の影響もあるのでしょうが、自分としては、歪みを取り除くために体自体が起こすものだと考えています。
 でも、本当に奥深いものなので、この先何が起こるか分からないし、体の歪みの少ない人がやればいろいろ面白いことも出てくるかもしれません。


 私はこの動きこそ体の歪みを正すのに最適なものだと思っています。
 自発動をやると心地よさを感じます。そして、体を歪ませるのは逆につらい不快な事ではないでしょうか。
 私の体の歪みは幼少期の問題と、無理な努力や頑張りが大きな要因だったと思います。
 人生にはつらくて、頑張らなくてはやっていけないことが多いですが、基本的には無努力な快の気持ちで生きないと、だんだんと歪みを背負っていってしまいます。


 最後に野口晴哉さんの言葉を
「人間は快い方向に動いていれば健康になれるし、健康になればどういうことをやっても快くなる。そして、その快いという方向に逆らわないようにさえしていれば、自然に丈夫になっていく。
それを意識で「良薬は口に苦し」ということを考えてしまう。それは間違い。頭を通さないで意識の快さをそのまま感じて、それが行動につながるように生活すれば人間は自然に丈夫になる。」「整体入門(ちくま文庫)」より

 気功に自発動(功)と呼ばれる功法があります。
 これは自分の意識とは無関係に体が動きだすというもので、体の根源的な働きと考えられています。
 体のあちこちが動き、その動いたところの気の詰まり・体の歪みを取り除き調整してくれます。
 気功というと、一般に人が思い浮かべるイメージは、気功師が手をかざすと患者が勝手に動き出す、というものかもしれません。これも自発動の動きの一つと言ってもよく、心身をリラックスさせてるときに、送られた気を感じやすくなって動き出すことが起きます。
 人によってそれぞれ違う動きが出て、その人の不調を治し、体を丈夫にしていってくれるものです。


 気功の功法と言いましたが、自発動と同じような動きは、古神道やヨガ、民間療法にもあり、前の記事で紹介した野口整体でも活元運動という名前で行われています。
 ちなみに野口晴哉さんは、この動きを無意識に体を整えている寝相と同じ性質のものだ、と言っています。



 私は、だいぶ前から、この自発動を起こせるようになりました。そして毎日時間の許す限り行っています。
 自発動を続けて感じた気づきは、私にとってすごく大切なことです。それはこのブログでお伝えしたい事の大本になると思っています。


 私がこれを始めたのは十年以上前で、自己流で体を強くする方法を考えたりしている頃でした。当時は自発動のことは知らなくて、偶然、自分の体の中にこの動きがあるのを発見しました。
 行えばスッキリするし、どうやら体を整える動きのようだと分かり、大発見だ、と興奮したのを覚えています。
 これを見つけられたのは、気に敏感だったからではなく、私の体の歪みが大きかったので、その反動として体が正常に戻るために強い動きとして、これが現れたからだと思います。
 私は落ち着きがなく、じっとしてるのが苦手な方なのですが、その落ち着きのないそわそわした動きの中に、自発動につながるものを見つけたのでした。
 体を健康にする原理を発見したのだから、これをやればすぐに丈夫な体になり、さらにそれ以上の能力も手に入るのでは、と期待しました。しかし、私の体の歪みは普通の人以上だったのでしょう、現実はそうも簡単ではありませんでした。
 
 
 思い出すのは、自発動をやり始めたころ、鏡で見た自分の背中の弱々しさです。
 当時は、登山なんかもして体力はあるつもりでした。しかし、鏡の中の背中は、私が現在まで他の誰にも見たことがないくらいのもので、肉付きはないし、背骨はギザギザしたかんじで真っ直ぐではなくて、全く力感がありません。
 体の背面にその人の生命力が表されている、と私は考えていますが、あの弱々しさは私の幸せとはいえない人生を象徴しているようでした。


 それからだいぶ月日は経ちました。長い間、自発動を続けた成果はあったと思います。
 歪みがはっきりみてとれた腰椎は整い、背中の上部には歪みが残っていますが、全体的に肉も付いて、昔の背中とは明らかに変化しました。でも、普通一般のレベルになんとかなったかな、という程度かもしれませんが・・・。
 それでも、あのままの背中で生きていけば、良くない結果が待っていただろう、と今では思っています。
 そして、これからも続けていく中で、この先どんなことが起きるのか、動きをもたらす本体が何を意図しているのか、といったことを知るのは今後の楽しみではあります。



 背中が貧弱なら鍛えればいい、と思われるかもしれないですが、筋トレなどをしてしまうと、その歪みを固定してしまうことになります。
 歪みは複雑に成り立っていて、簡単に正せないことが自発動を観察すると分かります。
 自発動が歪みを直す動きを見ると、人がやろうとして出来るものではないことが分かります。
 これは例えですが、背骨を少し左に傾けて、それから首を反らし、腕を微妙にひねるといった動きを、体を整えるために自発動は行います。これは決して意識的には出来ません。

 世の中には歪みを正す体操や施術がたくさんあります。これらは直そうとしている箇所の歪みを無くすかもしれませんが、無くなったように見える歪みは別の所へ移動した、というだけで根本的な解決にはなりません。
 自発動の迷いのない正確な動きを見ていると、体は全てを知っているので、私たちに出来るのは、その流れにゆだねる事だけなんだ、と思えます。


 次回は、そんな自発動の起こし方について書いていきます。

 1月24日の記事「風邪について 薬の危険性」で、風邪をひいた時に抗生物質や解熱剤、症状を抑える薬を飲むのはあまり良くない、と言うことを説明しました。
 風邪は薬ではなく、私たちの体の自然治癒力で治すものですが、今日はその風邪を引いて治る、ということをポジティブにとらえた考え方を紹介したいと思います。

 
 気を使った療法や、体癖という分類による姿勢の修正体操などを普及する「社団法人 整体協会」の創始者野口晴哉氏が「風邪の効用」(ちくま文庫)という本を五十年ほど前に刊行しました。野口晴哉さんは、独自の生命哲学と病気治しの技術の凄さで有名だった伝説的な人物です。
 
 「風邪の効用」の中で、野口さんは風邪について、私たちが持つ「万病の元」とか「できれば引きたくない厄介者」といったとらえ方とは全く異なる考えを述べています。

 要約すると
「風邪というものは私たちの心身の疲労、偏りなどが大きくなった時に、それを自ら調整するために体が起こす現象であり、疲労・偏りからくる体の硬さを弾力のある柔らかいものに変える自然の療法である。
 だから風邪を引いたら無理に治すことなく、上手に経過させることが重要。
 そうすれば体の偏りが正され、さまざまな病の予防、さらには治療にもなる。
 風邪を引けるのは自らの体を調整できる敏感な体であると言える。」といったことを述べています。

 無理に治すことはなく上手に経過させるというのは、必要のない薬を飲まずによく休んで、体の治癒力に任せるということでしょうか。
 本の中には上手に経過させる方法として、手からの気をあてて背骨の偏りを正す療法や足湯のやり方、心理的現象から見た風邪についても詳しく書かれています。

 この風邪についての考えを初めて聞く人は、どういう風に感じるでしょうか。
 この考えは、東洋医学や代替医療などに関心のある人たちの間では広く知られて受け入れられた話です。あの野口晴哉が言うからということもあるのでしょうが、私も自身が風邪を引く度にこの考えの正しさを実感します。
 皆さんもぜひ風邪を引いたら薬を飲むなんてもったいない事をしないで、自身の治癒力で風邪を経過させて、体の変化を観察してみて下さい。薬にばかり頼っていると自然治癒力はどんどん弱まってしまいますよ。


 本の中で私が面白かったのは、風邪を引いたらそれを機会に体を治そう、ガンになるような鈍い体にならないように上手に経過しよう、と風邪を引く決心をすると、風邪はなかなか引けなくなるという文でした。
 風邪を引くのは心理的影響が大きいので、それを逆手に取った高等戦術だそうです。これでは風邪を引くのがいいのか良くないのか分からなくなりますが、引くもよし引かぬも良しということにして、私もこれからはこの気持ちで行こうと思いました。


(前回からの続き)


 それでは本能はそれほど愚かなものなのか、という話に戻ります。

 前回に言った二つのストレス、食を抑制することによるものと、一般的なもの、これらのストレスが少ない場合には、好きなものを気の向くままに食べたとしても、それほど悪い結果を招かないと思います。

 ここで本能に従った方が良いという例として、フィンランドで行われた調査を紹介します。
 これは循環器疾患の危険性がある人を二つのグループに分けて、一方には定期的な健康診断と投薬治療を行い、もう一方には健康指導を行わずに好きなように生活させるというものでした。
 15年後にこの二つのグループを比較すると、健康指導を受けたグループの方が死亡率が高かったというものです。
 病気を気にしてストレスを感じながら節制するよりも、好きなように生活してストレスを解消した方が長生きできるのでは、という結果を示した有名な調査です。
 また野生動物は健康情報など気にせずに本能のまま食べ、人間が及びもつかない強い生命力を発揮します。
 本来は人間も動物なのだから本能に従って食べれば健康でいられるはずですが、食生活の変化、社会の影響、ストレスなどによって健康に生きるための本能が損なわれ、私たちの食に対する悩みが生じて来ています。

 人間の本能にかなった食というのは、気候、風土に合った伝統食(日本では和食)だと思います。
 伝統食の中にある、私たちの先祖が科学的知識もない中で作り上げてきた知恵には、動物の本能の確かさと同じような驚きを覚えます。しかし、本能に基づいていたはずの日本の食も現代ではおかしな姿に変わってしまいました。


 しかし、その損なわれた本能を回復させるためには、やはり本能に従うしかないと私は思います。
 人間の知識なんかより深い知恵を持つ本能は、自身を健康に戻す術を知っているはずです。
 例えば、異常なストレス食いなども考え方によっては、強いストレスを解消できないために本能が体を壊させることによって、ストレス状態から逃げられるように仕組んでいる、とも考えられるのではないでしょうか。

 あまり良いものと言えない偏った食習慣があったとしても、体が強く欲しているのならそれを抑え込まずに続けたほうが正しいです。(病気があって命にかかわるような時には話は別ですが)
 何か馬鹿げて見える欲求でも体が求めているのなら、そこには私達の考えを超えた必要性があるはずです。


 そういったやっかいな欲求も、自ら禁ずることなく満たしてあげていくと、不思議なことにだんだんやっかいなものでは無くなってきます。そしてコントロール可能などちらでもいいものへと変化していきます。
 それは問題を起こす子どもを叱るのではなく、その子の気持ちを理解し愛情をかけることで子供が落ち着いていくのと同じようなことだと思います。
 そして、この状態になれば、好きなように食べても、あまり極端なことにはならず、健康的な食生活を無理なく送れるようになります。



 本能の好きなようにさせれば、必ず本能自体の健全さが働きます。
 良くない食は体に対してやはり悪いですから、体としては避けたいはずです。でも、偏った食習慣を止めるためには本能が、その食の悪影響を実際に感じないと止めることは出来ません。
 本能自体が働くことで、初めて体への悪影響が理解されて、良くない食生活を止めることが出来ます。
 しかし、私達が食習慣を改善させるために行うのは、いつでも頭脳、知識による本能への命令です。
 このような命令を行ってしまうと、本能の働きは歪められて反発を招き、本能の体への敏感さが発揮されなくなってしまいます。

 制御困難でどうしようもなく見える食習慣も本能の働きの一部だと思います。
 本能、体は無数の要素の関わりの上に成り立っています。悪い食習慣もただ矯正させられる対象としてあるのではなく、何らかの体の必要性があって行われているのではないでしょうか。
 本能はその良くない食べ方の必要性がなくなったとき、体をさらに調和したものにすべく食習慣をあるべき位置に導きます。
 私達に出来るのは好きなように食べてその働きの邪魔をしないことだけです。


 
 しかし、実際にはストレスの問題が大きかったりするので、中年以降の人が完全に好きなように食べるのは少し難しい面もあるかもしれません。(とはいっても、食と本能の関係はここまで説明したようになっていると考えられるので、決して本能を無理に押さえつけるような事は良くないでしょう)
 本当はストレスも少なく、体力もある若いうちに、この本能に従った食べ方を体得するのが一番良いと思います。


 食べ方というのは本当に人それぞれです。
 イチロー選手や体操の内村航平選手などの一流アスリートの偏食、また1日に青汁一杯で何年も健康に生活している女性がいたりする、といったことを考えると、何が正しいとか言えなくなります。
 しかし、なにより食事をして元気になる食べ方が一番ではないか、と私は思います。
 食べて調子がよく、気分が晴れ晴れする食べ方をしていれば基本的に正しい。好きなように食べるというのは体が喜ぶように食べることです。


 
 ある有名な歌手が「おいしいものは体に悪い」と言っているのを聞いた事があります。好きに食べると、どうしても脂肪や糖分の多いものを食べてしまうということなのでしょう。
 しかし、私は「おいしいものは体に良い」と思っています。
 私は自らが菜食なのでこういう考えを持つに至ったとは思わず、一般の人でもストレスなく好きに食べればこういう結論になると思っています。
 面白いのは、ハリウッドスターといったアメリカのセレブにベジタリアン志向な人が多いことです。
 世界中のどんな贅沢な物でも食べられる大金持ちの彼らが、そういった食事をするのは、好きな物を食べ尽くした結果、最終的に私が言ってきたような体の喜ぶ食にたどり着いた、と見るのはあまりにこじつけに過ぎるでしょうか?

 私の食に関するモットーは昔から「好きなものを、好きな時に、好きなだけ食べる」でした。
 なので、今まで体に良いから嫌々食べるとか、食べたいけど太る、健康に良くない、と我慢するということをほとんどした事がありません。
 この理由は簡単で、我慢するとストレスになるからです。
 
 食事は本来私たちをリラックスさせる行為のはずですが、あれはいけない、こうしなくちゃ、と常に考えていると、ストレスを解消させるはずの食事が逆にストレスを作る元になってしまいます。
 そのストレスがたくさん溜まると、ダイエット中なら耐えられなくなって逆に食べてしまってリバウンドしたり、何か食以外の不健康なストレス発散をしたりしがちではないでしょうか。

 そういう楽しくない結果を招くくらいなら、初めからストレスのたまらない食べ方をした方がいい、と私は考えてきました。 
 食べることの我慢から来るストレスは、人間の根源的な欲求である食を楽しめなくさせます。このストレスは思っているより大きく、人生全般に悪影響を与えかねないと思います。
 スタイルや健康のためといった頭の考えで、食べるという本能を後ろめたい目で見て抑制すると、押さえつけられた本能は必ず何らかの形で暴発します。私達の思考と本能ではその深さ、エネルギーの大きさが違うので、本能を抑える行為は失敗に終わることが多いはずです。
 そうはいっても本能のおもむくままに食べれば、絶対に甘いものやカロリーの高いものをたくさん食べて太り、最終的には病気になってしまうのだから、我慢は必要だと多くの人は考えます。
 しかし、本能はそれほど愚かで私達を破滅に導くようなものなのでしょうか。


 このことに触れる前に、食べることに関するもう一つの大きな問題を先に指摘したいと思います。それはストレス食いと呼ばれるストレスを解消するための食べ方についてです。
 先ほど述べたのは食に対する抑制から起きるストレスでしたが、ここでのストレスは食に関係ない事での一般的なストレスです。
 これは嫌な事があってストレスを受けた時に、ウサを晴らすために誰もが経験したことがある食べ方だと思います。多少体に負担がかかっても、たくさん食べたり、飲んだりしてストレスが解消されるのであれば、時おりなら悪くありません。
 しかし、このストレス解消のための食べ方が日常化している場合には注意が必要でしょう。確かにこの状態で好きなように食べたら、肥満や病気になってしまいます。
 ですから、これは好きなように食べるうんぬんの話ではなく、原因となっているストレスを取り除くのが先決です。
 そして、この食べることでストレスを解消しているときに、食べすぎだと反省し食欲を抑制すると、ストレスが倍加してさらに悪い状態になってしまいますので気をつける必要があります。
 食べ方が異常になっている場合は、その原因になっている強いストレス(気づかないでいるものもある)に向き合うのが一番の解決策です。


(次回へ続く)
プロフィール

Author:まやと
努力なしで最大限の成果を得られる健康法を日々探求しています。趣味 野菜料理を作る 音楽を聴く
ツイッター@mudoryoku

最新記事
ブログ村
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:


Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ