これまでパニック障害の克服のための方法について3ヶ月ほど書いてきました。
 その中の私の経験・考えも含め、さまざまな方法を知ってもらい症状に悩んでいる人の改善に少しでも役立つことが出来たらと思っています。
 そして、今回から数回ほど今までに書ききれなかった、この病気について私が思っている事を書いて、このブログでのパニック障害克服に関する記事の締めくくりにしたいと思います。

 私がパニック障害になった事でよく思うのは、もしこの病気になっていなかったら、別の病気になっていたんじゃないか、という事です。重度のうつや他の精神疾患、肉体的な病気ならガンなどです。
 パニック障害になる人は精神的に繊細であったり、神経質だったりして、心や体の不調に敏感な場合が多いかもしれません。それは実際、心身が弱くていたわらなくてはいけないという面もあるからだと思います。
 一方、生まれながらに体が丈夫で、徹夜しようが熱が少々高かろうが平気という人もいますが、そういった人はその丈夫さゆえに自分の体に無頓着で、いたわる事をあまりせず、体を酷使しがちになります。あまり自らの体を過信してしまうと、体の異変に気づきにくくなってしまう事も多いかもしれないですが、ガンになりやすいのはこういった肉体的に強く、無理も平気という人に多いと、ある医師が書いた本で読んだ事があります。多少体が悲鳴を上げても頑張ってしまったり、SOSに気づけなくてガン(重いうつ病や過労死等もそういった面があると思いますが)になってしまう事もあるでしょう。
 その点、パニック障害になる人は体の状態に敏感なので、無理をして本当に体を壊す手前の所で体が警告を起こし、それがパニック発作として表れたというのもあると私は思っています。
 他の病気と比べるというのは変ですが、ガンだったら直接命に関わる病気です。しかし、パニック障害はそれで命を落とす事はないと一応されているので、その点では少し安心できるのかもしれません。(それ以外では困った事も多いですが・・)
 パニック障害になるのは一見マイナスばかりのようですが、発症する前の状態そのままでいれば命が危なくなってしまうので、そこから逃避させて体を救い、さらにパニック障害になった外因・内因に自ら気づくようにさせている面があるんじゃないか、また体が弱いから助かり、体が強かったら助からないという逆説的な事もあったんじゃないか、と思いもします。

 物事の善悪は一面的に決められず、良いは悪い、悪いは良い、持つは持たない、持たないは持つといった事が長い目で見るとけっこうあるのではないでしょうか。パニック障害になった事にも良かったところは必ずあります。人生はそう簡単に割りきれるものではないはずです。

 こういった人生の逆説的に見える真理について多く語るのは、中国の老荘思想でしょう。これは二千年以上前の古代中国で老子、荘子によって説かれた思想で、私は「道(タオ)」や「無為自然」、「胡蝶の夢」など通りいっぺんの事しか知りませんが、自然、社会、人生の摂理や知恵を説くとても奥深い教えだと思います。
 その荘子の言葉に「無用の用」というものがあるんですが、それが今述べていた事と関係する所があると思うので、ちょっと取り上げてみます。
 「無用の用」は荘子の著書とされる「荘子(そうじ)」で言葉の意味を少し変えながら、いくつかの話の中に出てきます。

 ある所に大きなくぬぎの巨木がありました。それを見た木工の職人の頭が「舟を造れば沈むし、棺桶を作れば腐るし、道具を作れば壊れてしまう。全く使い道がなく取り柄のない木だ。」と言うと、その晩、職人の夢の中にくぬぎの巨木が現れて「すべて役に立つとされる木は実をもがれ、枝を折られ、人間の用のために切り倒される。何の役に立たないからこそ天寿を全うすることもできるのだ。」と告げるという話。
 山の木は有用なため切られ、漆の木は塗料となるので切られる。虎やヒョウの美しい模様は狩りを招くもとになり、タヌキを捕らえる特技を持つ犬はそのために繋がれて不自由な思いをする、あまり有用だと身の災いになる、といった話。
 また、大地は広大だが人の使うのは足の踏んでいるわずかな広さである。もし踏んでない地面を不要だとして、それを掘ってなくしてしまったら、その土地は有用だと言えるだろうか?一見役に立ってない無用のものが実は役に立っている。無用があるから有用が成り立つという問答など、ほかにも違う意味を持つ「無用の用」の話もありますが、私の興味を持ったものだけ書いてみました。
 パニック障害の人が無用というわけではありませんが、私は使い道のない木だから天寿を全うできるという話を読んだ時に、そんな考え方もあるんだととても心を動かされました。そして、さきほどのガンになりやすい人の話などとあわせて考えると、これは人生の一面について的確に指摘したものにも思います。
 体を気にしたり、恐れにいつもとらわれて、現実社会からすれば役に立たなく、無意味に思える事も、見方を変えれば用になりえるという発想。こんな考えが二千年以上前、日本では縄文時代の頃に説かれているというのに驚いてしまいます。そして、社会からすれば。無用な事の多い私の生に意義を与えられたように感じて少し気が楽になりました。
 現代社会は効率とか経済性、有能さなどが特に重視されてそれを追い求めますが、そういったものばかりではなく、人の気持ちや自然、取り柄のなさや無意味なものなど有用からこぼれ落ちたものも大切で、無用だからこその自由やものの見方があるんだと思ったりもします。

 中国では昔から秩序や礼節を重んじる儒教の教えが国によって取り入れられてきましたが、老荘の思想はそれに対抗する形で存在し、儒教的な堅苦しさからの開放という役割をしてきたところもあるそうです。
 日本にも古代から儒教は取り入れられてきて(日本仏教の先祖供養などはもともと儒教の教え)その影響は大きく、忠君報告といった考えや縦社会みたいなものは儒教からのものでしょうが、儒教と比べると老荘思想はそれほど日本に広まらず、私は日本社会に感じる息苦しさの訳はこんな所にもあると考えます。

 「道徳」を学校の教科にしようという動きがあり、これは現政権か文部科学省か誰が進めているかは知りませんが、何が正しいというのを決めてもらえば何も考えなくてラクになります。その正しい事も、アメリカの言いなりになる事か、武器や原発を売って金をかせぐことか、お上の言うことを疑わずに従う事か何か分からないですけど、そういった事を学校で教えるようになったら、ますます生きづらい社会になって私という存在の無用化も進むなと思ってしまいます。
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